道歌

現代版 報徳全書 『解説 二宮先生道歌選』より

おのが子を 恵む心を 法とせば 学ばずとても 道に至らん
(おのがこを めぐむこころを のりとせば まなばずとても みちにいたらん)

尊徳翁が考案した報徳金(無利息金貸付法)とは、親が自分の子供を育てる時には損得にかかわらず育てる心と同じ心でこれを創設した。 貸し付けた利子を儲けるのではなく、貸し付けたお金で行った功績を重んじるものである。

咲く花や散る紅葉のさまざまも かはる心はいつも一色
(さくはなやちるもみじばのさまざまも かはるこころはいつもひといろ)

日本の季節ごとの景色は、春に咲くの花の色や、秋の紅葉のように化粧する木々の色、色様々なに装いを変えて楽しませてくれるが、自然の美を賞賛する心は時代を超えてかわらない心である。 そして、春があり秋が来るように、天地・昼夜・生死・善悪・増減全てが相対するが、全てが一つの円に存在する円の弧である。たくさんの弧が重なりあって円となる。尊徳翁はこの哲理を詠んでいる。

何事も事足り過ぎて事足らず 徳に報ゆる道の見えねば
(なにごともことたりすぎてことたらず とくにむくゆるみちのみえねば)

人は現在の生活環境が全て当然だと考えて、「まだ不足だ。」「まだ不満だ。」と訴える。しかし、天地、社会、親等に対して恩を感じても、徳を知り尊敬する人はなかなかいない。色々なことがあっても、現在無事に生きて生活していることを今の自分として尊重し、それを基礎としてわきまえた生活を計画し営んでいけるのであれば必ず今以上の生活が送れるようになる。という普段忘れがちになりそうなことを強調したうたである。

何事もおのがあゆみに異ならず 右進めば左とどまる
(なにごともおのがあゆみにことならず みぎりすすめばひだりとどまる)

すべての現象は、長短・大小・遅早の差はあっても、1つのものが永続していることはなく歩行という動作でも左足右足と交互に動かしている。今の時代は、社会や国家や隣人よりもまず自分が生きることを優先してしまいがちだが、家族・隣人・社会・国家・世界があってこそ個人があることを忘れてはならない。

天地の和して一輪福寿草 さくやこの花幾代経るとも
(あめつちのわしていちりんふくじゅそう さくやこのはないくよふるとも)

福寿草の花が咲き米が実る。それは万物の現象が一円融合の原理から、生まれ発展することを現している。この事実は宇宙の一切の万物のことであるが、一年生の植物にはわかりやすく現れている。このことから一村一家の振興の根本原理を握りこの歌を詠まれたのであろう。

故道に積もる木の葉をかきわけて 天照神の足跡をみん

この歌は、少年時に無一文になった尊徳翁が、23歳には当時の一村平均以上の田地を所有し復興した。その方法とは、古より日本人が行ってきた勤労によって積み立てた天と地の徳にほかならない。古にもどれということではなく、古を知り新たな文化を創造していくことが復興につながる手段である。と、説いた句である。

いにしへはこの世も人もなかりけり 高天が原に神いましつつ
(いにしへはこのよもひともなかりけり たかまがはらにかみいましつつ)

米まけば米草はえて米の花 さきつつ米の実のる世の中
(こめまけばこめくさはえてこめのはな さきつつこめのみのるよのなか)

春の野にめだつ草木をよく見れば さりぬる秋に実のるくさぐさ
(はるののにめだつくさきをよくみれば さりぬるあきにみのるくさぐさ)

むかしまく木の実大木となりにけり 今まく木の実後の大木ぞ
(むかしまくこのみおおきとなりにけり いままくこのみのちのおおきぞ)

苦と楽の花さく木々をよく見れば 心の植えし実の生えしなり
(くとらくのはなさくきぎをよくみれば こころのうえしみのはえしなり)

まく種のすぐにそのまま生い立ちて 花と見るまに実のる草々
(まくたねのすぐにそのままおいたちて はなとみるまにみのるくさぐさ)

ページトップ